BELIEVER

第四話:人は愛をカタる



 あの日からずっと、眠るのが怖かった。

 あの時の夢を見てしまうのがわかっていたから。

 幸い全く寝なくても死なない体ではあったし、一人で過ごす夜がとても長いということを除けばずっと起きていても不便はない。
 アビスになったことによる弊害というわけではなかったのでビリィには黙っていた。余計な心配をかけたくはなかったからだ。夜を一人で過ごすのは慣れている。

 だから、ドリィは決して眠ろうとはしなかった。




************

 懐かしい記憶だ。
 石畳が規則正しく並べられた庭園でドリィは本を読んでいた。地下書斎から持ち出してきたものだ。ティアモの道具について書かれた数々の本は、いつだってドリィの心を軽く浮き立たせた。
 太陽は空高く輝き、コルマガ王国を眩しく照らしている。庭園には色とりどりの植物が植えられて、光に向かって懸命にその花を咲かせていた。こんなに美しい庭園を持つのは、世界広しと言えどコルマガ王国城のみであろう。他の場所ではこのような鑑賞花を育てられるだけの水も、技術もなかったからだ。
「熱心だね」
 背中から声をかけられた。心臓が明るく跳ねる。ドリィはこの声の主を知っていた。
「ラス」
 振り向くと、そこには片眼鏡をかけた金髪の若者が立っていた。よく見ると髪の毛の手入れは行き届いておらず、毛がところどころハネているし、爪もやたら伸びている。しかし小汚い印象はなかった。端正な顔立ちのおかげかもしれない。
「あまり太陽の光の下で本を読むのはお勧めしないな、ドリィ。君の眼にも、本にもよくない」
 ラスは苦笑して肩を竦めた。どうやら苦言を言いに来たらしい。ドリィは素直に、しおらしく謝って見せた。
「ごめんなさい。今日は一段と庭の花が輝いて見えて」
「だったら花を十分愛でてから書斎においで。欲張らなくても、時間はたっぷりあるんだから」
 ラスはドリィの頭をぽんぽんと叩いてから背中を向ける。ドリィは俯いてはにかんだ。手に持っていた本を閉じる。

 ラスは不思議な男だった。

 2年前、コルマガ王国で起こった大規模な流行病は小さな子供や年寄りを中心に猛威を振るい、その命を奪った。
 皆がその病に為す術もなくただ嘆く中、ラスは突然この国に現れた。そして持ち込んだワクチンで、瞬く間に国中の病に侵された人々を治していったのだ。
 国王であるレジウ・マストはラスのその功績を讃え、彼を最高科学技術官として登用することにした。ラスのその医学の腕を存分に振るってもらうためだ。国外から来た者に重要な役職を与えるなど、コルマガの歴史からは考えられないことだった。しかしラスの行ったことを考えると、その決定に異を唱えるものは誰もいなかった。

 元々国外の人間で、コルマガ王国に来て日が浅いからだろうか。ラスは政治的な場でない限りはドリィやレジウを呼び捨てにし、旧知の友人のように気さくに話しかけた。コルマガ王国における――いや、この世界におけるマスト王家の絶対的な権威を考えると、ありえないことだった。乳母でさえドリィのことは様付で呼ぶ。王家の人間を呼び捨てでするなど、不敬罪で首をはねられてもおかしくはない。
 しかし、国王はラスのこのような行いを決して咎めるようなことはしなかった。そしてドリィもまた、家族以外に自分の名を気軽に呼んでくれる人がいることがうれしかった。

 暫く城内へ消えていくラスの背中を見つめていたが、ドリィはハッとしてラスを呼び止める。
「ねぇラス!――お父様の様子はどうだった……?」
 城が作る影の中に消えようとしていたラスだったが、ドリィの言葉に足を止めた。しかし、振り向こうとする足取りは重い。
「あまりよいとは言えないね。政務は滞りなく行っているようだが、それが終われば自室に籠りっきりだ。……しかし無理もないよ。レジウは最愛の人を亡くしたんだ。その悲しみはそうそうすぐに癒されはしないよ」
 ラスは我が事のように眉をよせ、苦しそうに言った。ドリィも胸をぎゅっと締め付けられたような気持ちになる。
「僕は会ったことはなかったけど、民を一番に重んじるとても素敵な方だったと聞いているよ。ね、ドリィ」
 ラスの言葉に、ドリィは黙って頷いた。
 そう、2年前の流行病の時、王妃は率先して病に侵された患者の元へ赴き、その容体を見舞っていた。国の大事を憂いた王妃は、今こそ地下書斎で学んだ医学の知識を活かす時だと考えたのだろう。
 しかし病に対する明確な対処法も見つからないまま、王妃自身が病に侵されてしまった。発症から一か月、ラスが国にたどり着くその直前に王妃は命を落とした。

「僕がもう少し早く来られれば、王妃を助けることもできたかもしれないのに……」
 ラスの言葉にドリィは首を横に振る。
「でも、ラスが治療法を持ってこの国に来てくれなかったらもっと被害は拡大していたわ。今度行われる一斉予防だって、あなたがいなければ実現できなかった。お父様もきっとラスに感謝してる」
 そう、一週間後に行われる一斉予防では、国民全員に疫病に対する抗体を事前につくるために注射を行うことになっていた。
 それもラスが自らの知識を元に、この国に来て2年、地下書斎で研究をしてきた成果だった。
「ありがとう。君は本当に聡明だね、ドリィ。人を思いやる心も持っている。君はきっと、この国の後継者に相応しい女性になるだろう」
 ラスはドリィの頭をくしゃくしゃと撫でる。ドリィはくすぐったそうに微笑んだ。
「けれど、君も辛いだろう。愛する母上が亡くなって」
 再度陽の光の元に出てきたラスの顔は逆光になっていて、こんなに近くにいるのにドリィにはその表情を伺い知ることができない。それにもどかしさを感じながら、ドリィは自分の考えを口にする。
「お母様がいなくなった時は本当に悲しかったけれど……でももう2年だもの。前を向かなくちゃ。お父様ができないなら、私がお父様の分まで」
「そうだね、2年は長い。愛する人を失ってからは、もっと」
 ラスは確認するように頷いた。しかしやはり表情は見えない。その分紡がれる声に冷たさが上乗せされたようで、ドリィは知らず知らず震えで手を握りしめた。
 流れてきた雲が太陽を覆い隠す。光が弱るとともに影も薄くなり、やっと見えた顔はやはりいつもの優しい笑顔だった。ドリィはほっと胸をなでおろす。
 ラスはドリィの頭に乗せていた手を離した。
「そういえば、その国王に呼ばれていたんだったよ。そろそろ行くね」
「あっ……。ごめんなさい、引き留めてしまって」
 一瞬名残惜しそうにその手を視線で追うが、しかしすぐに恥ずかしくなってぱっと俯いた。ラスはクスリと笑う。
「いや。レジウへの謁見が終わればまた書斎に行くから、君は庭を堪能してからゆっくりおいで。鍵は開けてあるよ」
 そう言うとラスはドリィに手を振り、今度こそ城内へと歩を進める。しかしはた、と立ち止ると、再度ドリィの方へ振り返った。

「ドリィ、君は愛で世界を救えると思うかい?」

 それは唐突な質問だった。ドリィは一瞬ラスの言ったことがわからずに固まってしまった。言葉として理解できたあとも、なぜラスがそんなことを言ったのかがわからず、何も言えなくなってしまう。
 ラスは暫く黙っていたが、ドリィの様子を見て困ったように笑い、
「変なことを聞いてごめんよ。じゃあ」
 そう言って背を向けた。ドリィはなぜか何かを言わなければいけないような気がした。
「ラっ、ラスは……!」
 ラスの足が止まる。ピンと空気が張りつめたようで、ドリィはたじろいだ。しかし言いかけたことをやめるわけにもいかず言葉を続ける。
「ラスは、どう思ってるの……?」
 聞かなければよかった、と後で散々後悔した。しかし一度口にした言葉はもう撤回することが叶わなかった。ラスはドリィに背中を向けたまま、確信めいた口調で言った。

「僕は、愛は世界を滅ぼすと、そう思ってるよ。ずっとね」



 これが夢であることに、ドリィは気づいていた。
 この10年間ずっとドリィを苦しめていた記憶だ。

 この日からラスの言葉が気になっていたドリィは、国王の自室に入るラスの姿を見かけて思わず聞き耳を立ててしまった。
 そしてあの恐ろしい計画の全容を知ったのだ。
 しかし幼かったドリィにはその真実を国民に知らせる術も、真実を知ったことをラス達に隠し通す機転もなかった。

そして、とうとうその日″は訪れてしまった。


「ドリィ、聞き分けのないことを言わずにこちらへおいで。そう痛いものじゃない」
 城内にある一番長い廊下。その一番端にドリィは立っていた。反対の角から父親がドリィを呼ぶ声がする。廊下を伸びる影、その手には注射器が握られていた。
 声音には一切の感情が込められておらず、ただ冷たい音となって廊下にこだました。
 ドリィが動けずにいると、突如腕を掴まれる。ハッとして見上げた先には、全ての元凶である男が立っていた。
「ラス……!」
 キッと睨み付けるが、ラスは穏やかに笑っている。しかし強く握られた手を振りほどくことができない。ギリリ、と腕が捻りあげられてドリィは痛みに呻く。
「あまりお父上の手を煩わせてはいけないよ、ドリィ」
 腕を掴む強さとまるで正反対に穏やかな声でラスはドリィを窘める。その声があまりに普段通りで、ドリィは一瞬悪いことをしているのは自分の方ではないだろうかという錯覚に陥った。
 しかし。
「ラスは……ずっと機を伺っていたのね。本当はお母様が病に侵された時も黙って見ていたんでしょう。全て、この計画を実現するために」
 ドリィの言葉にラスは笑みを深くした。齢8歳になるかならないかという目の前の幼い少女が、自身の力でその事実にたどり着いたことが嬉しいようだった。
 だが、ドリィの質問にラスは答えなかった。いつの間にか目の前にはコルマガ国王、レジウ・マストの姿があったからだ。レジウは無言でドリィを見降ろす。そしてゆっくりと腕を伸ばしてきた。
「お父様、目を覚まして!!」
 ドリィは叫ぶ。一縷の望みを、目の前にいる父親に託した。
「こんなことをしてなんになるって言うの!?お母様だって絶対に喜ばない……!」
 ピクリ。注射を持っていた手が止まる。
「そうだろう。シエラが生きていたら、きっと私を全力で止めたに違いない」
 ドリィはぱっと顔を明るくした。ラスが握った手の力をふと緩める。その隙にその腕を振りほどくと、ドリィは自ら父親の元に駆け寄った。
 しかし、レジウの瞳に光が戻ることはなかった。

「だが、シエラはもう、この世界のどこにもいないんだ……」

 ハッとしたドリィはすぐに身を引こうとする。しかし素早く伸ばされたレジウの腕は瞬く間にドリィの右腕を掴んだ。そのまま、まるでものを扱うかのように乱雑にドリィの身体を引きずり寄せる。
「あぁっ!」
 自らの娘の呻きも、レジウにはもう聞こえていないようだった。もう片方の手に握った注射器を、ドリィの腕へと近づけていく。
「やだ…やだ……」
 ドリィはもう力なく首を横に振ることしかできなかった。無駄なことだとわかっていながらラスの方を向いた。しかしラスは、静かに笑みを浮かべて立っているだけだった。

 そして、針がゆっくりと体内に侵食してくる感覚と共に、ドリィは気を失った。




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