BELIEVER

 ラスが机の上にも置かれていた本を持ってどこかへ立ち去ると、書斎には一度静寂が訪れた。ビリィは大きく息をつく。やはり緊張していたらしい。ドリィもふぅ、と肩を下ろした。椅子の上の埃を払うと腰をかける。ルッカは興味深そうに本棚から本を取り出しては開いていた。
「……ドリィは、彼のことはよく知っていたのかい」
 ビリィも椅子に腰かけながら聞いた。なぜかぶっきらぼうな物言いになっていて、自分で言いながらビリィは胸の内で首を傾げる。
 ドリィはビリィの戸惑いを知ってか知らずか、
「コルマガ王国では一番接した人だったわ。私がこの書斎に降りると、いつも彼がいた。旧時代の文字を教えてくれたのも、ティアモの資料に書かれたことをかみ砕いて説明してくれたのも、全部あの人」
 そうポツリと答えた。顔は上げなかった。
「私にとっては、兄みたいな存在だった」
 その言葉が、ズシリとビリィの胸の奥に重くのしかかった。母の胎内にいた、新しい命のことを思い出す。
 彼もドリィのことを妹のように思っていたなら、あるいは。

「なぁドリィ、君は……」

 ビリィが身を乗り出しかけたところに、ラスがティーポットとカップを盆に乗せて戻ってくる。ふわりと紅茶の香りが辺りに漂った。
「やぁ、待たせたね」
 ラスが笑顔のままこちらへやってくる。机の上に盆を置くと、ゆっくりと紅茶を注いだ。
「カップはすでに温めているからね。ちょうど飲み頃だと思うが、熱さには気を付けたまえ」
 紅茶の匂いにつられてルッカが机の方へ戻ってきた。くんくんと鼻をひくつかせると、ポットから注がれる琥珀色の液体に目を輝かせる。
「もしかして、紅茶を飲むのは初めてかい?」
 ラスの言葉にルッカは恐る恐る頷いた。ラスは優しく目を細めて「そうか」と言った。
「昔はこうやってここでこっそり二人でお茶会をしたね、ドリィ。覚えているかな」
 カップをドリィに差し出しながらラスは問いかけた。ドリィはそのカップを両手で包み込み、
「……忘れるわけがないじゃない」
 そう言った。眉を寄せて、泣きそうな顔だった。その様子にビリィは焦燥感を覚える。無意識のうちにコツコツと机を指で叩いていた。

「やぁそうだ、僕の話だったね」
 ビリィの様子に気が付いて、ラスは悪い悪い、と手を上げた。
「まずは君たちが望んでいる結論から行こうか。ドリィと……そこにいるアビスの落とし子。君たちはきっとすぐに成長するようになるよ」
「……!」
 探していた答えをあっさりと言われて、三人は愕然とする。ビリィは恐る恐るドリィを見るが、彼女もやはりラスの言葉が信じられないようで目を見開いていた。
「うそ……」
「嘘じゃないさ。アビスの落とし子はアビス細胞を埋め込まれた時点で体の成長が止まってしまうが、とある条件を満たせばまた成長が再開する。アビス細胞は大人と子供では違う作用をもたらすことがわかってね。大人はすぐにアビスに変貌してしまうが、子供にいたってはその成長を阻害するものらしい。僕も初めて知ったよ」
 呆然と呟くドリィに、ラスはこともなげに答えた。ドリィの唇がわなわなと震えている。ビリィもまた、コルマガに来る目的がこんなにも簡単に果たされたことに唖然としていた。
「条件、って……?」
 ドリィが恐る恐る問いかける。しかしラスは意味深に笑うと、問いかけには答えずに言った。
「僕はどうしても知りたかったんだ。愛が本当に、世界を滅ぼせるかどうかを」
 その言葉に、ドリィの肩がビクンと跳ねた。ビリィもまた、王家の道での会話を思い出していた。そう、あの時ドリィに問いかけられた質問と同じだ。
「君は、アシンメトリィ・コミットにアビスが関わっているという話を聞いたことがあるかな」
 ラスの言葉に、ビリィはドリィと顔を見合わせる。そして頷いた。
 そう、その話なら以前ドリィから聞いたことがある。アシンメトリィ・コミットの資料には、必ずといっていいほどアビスのことも書かれていると。
「アビスは元々、人の営みの中で自然に生まれる存在だったらしい。身の内にアビス細胞を持つ者が現れ、ある日突然アビスに変異する。アビスとなる者を殺すことができるのは勇者の剣を持つ者、ただ一人だけ」
 そう言ってラスはビリィの背中を指さす。ビリィはその指が指し示す先を……自らの剣を見た。
「古い言い伝えではこう言われているらしいね。アビスとは、人類に課せられた愛の試練だと」
「愛……?」
 ドリィの問いかけに、ラスは近くにあった本を手に取ると片手でパラパラとめくる。もう片方の手に持ったカップを傾けてお茶を一口飲んだ。とあるページを見つけると、満足そうに笑って手をピタリと止めた。そこに書かれている内容はビリィには少しもわからなかったが、添えられている挿絵はアビスと勇者の剣に似ていた。
「アビスと勇者は、常に恋人同士だということだ……勇者が愛する人であったそのアビスを殺すことが出来るのか、それが世界の命運の分かれ目だと」
 ビリィはドキリとした。背中の剣に熱が籠った気がする。その様子を見て、ラスはニヤリと笑った。
「ただのおとぎ話だと思うかい?でも僕はある日、アビス細胞を手に入れることに成功した。その培養方法に辿りついた時、僕は愛する王妃を亡くした孤独な王に囁いたのさ。その愛が本物なら、彼女のいない世界など壊してしまわないかと」
 その言葉にドリィが机を叩いて立ち上がった。バランスを崩した椅子が後ろに倒れて、大きな音を立てた。握った拳が机の上でふるふると震えている。
「じゃあ……あなたはただの興味で、そんなくだらない理由のために……お父様をそそのかして、みんなにアビス細胞を埋め込んだの?あの日聞いたあの質問を体現するためだけに!」
「くだらないとは心外だね。僕は最高科学技術官として、自らの研究を実証するために行動しただけさ」
 ラスが肩を竦めると、ドリィはギリ、と歯を軋ませて「……狂ってるわ!」と吐き捨てた。「それはそうかもしれないね」とラスはこともなげに返す。
「しかしドリィ。私は君の父上の部下として、何より友人として。彼を助けようと思った結果なんだよ」
「なんですって……?」
「彼は誰よりも王妃を愛していた。彼には、王妃のいない世界などに価値を見出すことはできなかった。それでも、彼がこの国の王であり続けたのは――王としての責務を果たすためだ。伴侶のいないこの国でも、彼は己の国民のために、一心に王であり続けた。
 酷な話だ。彼が立派な王であり続ける限り、確かに民は幸せだろう。愛する人を見つけ、婚姻を結んだりもするだろう。しかし、彼だけはずっと一人だ。僕は彼をしがらみから解き放ってあげたかったのさ」

 狂ってる。

 そうビリィも思った。貼りついた笑顔で淡々と語るこの男が、ビリィも恐ろしかった。気づけばルッカが震えながらビリィの腰にしがみついていた。その肩をビリィはぎゅっと抱きしめる。そうしていないと、自分でさえこの男の狂気に飲まれてしまいそうだった。

「……なぜ、あなたはそこまでこだわるの?『愛』という気持ちに」
 絞り出すようなドリィの言葉に、ラスはぴくりと肩を震わせた。
「この10年間……いいえ、あなたと初めて会ったその日から、あなたは全然姿が変わらなかった。もしかしたら、あなたこそが最初の『アビスの落とし子』かと思っていたけれど、本当にあなたの話を信じるなら大人であるあなたはアビスの落とし子にはなりえない。……本当は、あなたはティアモの時代から生き続けていて――知っているんじゃないの?アシンメトリィ・コミットの真相を」
 ドリィは胸の前を苦しそうに抑え、それでもラスから目を逸らさずにそう言った。
 初めて、ラスの顔から表情が消えた。紅い瞳の色が、深淵を覗くかのようにその色を濃くする。その瞳を覗き見て、ビリィは背中にゾクリとしたものを感じた。
 しかしそれもすぐ、嘲るような笑みに変わる。
「君にしては突拍子もない、面白い仮説だね。アシンメトリィ・コミットから少なくとも300年以上。人がそんなに長く生きられると思うのかい?」

「でも、それなら、あなたは――」
「そろそろ時間かな」
 またも何か言いかけたドリィの言葉を遮って、ラスは天井を見上げた。その視線を追ってビリィ達も天を仰いだ時、大きな音を立ててその天井が割れた。
「な……っ!」
 瓦礫が次々に本棚と四人の上に降り注いでくる。天井を破り押し入ってきたのはアビスの尾だった。ぽっかりと開いた穴から見える空は、すでに夜になっていることを告げている。
「ドリィ!」
 ビリィは思わず叫んだ。ドリィは、ドリィなら、アビスの現れる場所がわかるんじゃなかったのか?
 しかしドリィは穴からだらりと垂れさがる尻尾を見上げて呆然としていた。馬鹿な、信じられない。そんなことを言いたげな顔だった。
 そんなドリィの顔を見て、ラスは満足げに笑う。
「やはりわかるかい、ドリィ。そう、あのアビスは君の考えている人物で合っているよ」
 ラスの言葉にドリィは目を見開いた。恐る恐る、確かめるように口を開く。
「お父様……」
「……!」
 その言葉に、今度はビリィが声を失った。見上げると、こちらを覗く赤い瞳と目が合ったような気がした。しかしその巨体の頭は高く空に霞んでいて、瞳さえどこにあるのかわからない。

「ビリィ……行って!私も、すぐ追いかける……!」
 ドリィが呻くように言った。
「でも……だって……」
「お願い!アビスはみんな殺してって、約束したじゃない……!!」
 はじかれたように叫んだ言葉に、ルッカがびくりと肩を震わせた。ビリィは暫く逡巡していたが、しかしキッと空を見据えると床を蹴った。崩れた本棚を足場にして軽々と天井へと登っていく。
 その様子を見て、ラスが感嘆のため息をついた。
「すごいな。これが勇者の剣の力か。もちろん、彼の元々の運動能力もあるんだろうが」
 瓦礫が次々に落ちてくる中で、ラスは嬉しそうに笑った。ドリィはルッカを抱きしめたまま、ラスを鋭い瞳で見つめていた。
「怖い顔だ」
 ドリィの表情に気付いてラスが茶化す。
「……あなたの目的が、『愛は世界を滅ぼすか知りたい』ということだったなら――その答えは「いいえ」よ、ラス。アビスは生まれてもアシンメトリィ・コミットは起こらず、アビスの恋人でなくともビリィは剣を持ち、アビスを殺すことができる。あなたがやったことは、いたずらに世界を混乱に陥れただけよ」
 それは淡々と事実を告げたつもりだったのか、それともドリィなりの挑発だったのか。しかし二人の前に立つラスは、その言葉には何も返さず笑みを深めるだけだった。アビスと同じ瞳の色が、ルッカの心に恐怖を刺す。そのまま一歩足を踏み出すと、びくりとルッカの肩が震えた。
「近づかないで」
 ドリィが強い口調で牽制する。しかしラスは薄い笑いを浮かべたままもう一歩踏み出した。
「ラス・ト・ティラー!止まりなさい!!」
「命令、か。亡くした国の栄光にまだすがるかい、ドリィ姫。成れの果てがすぐそこにいるって言うのに」
 困ったように笑ってラスは空を見上げた。憐れんだその声音にドリィはカッと顔を赤くする。

「誰のせいで……っ」

思わず立ち上がりかけたドリィの体を、ルッカがぎゅっと押しとどめた。ドリィはハッとした顔になるとルッカの体を抱きしめ直す。
 ラスは一瞬柔らかな笑みを浮かべると、落ちてきた瓦礫に腰を下ろした。
「安心するといい。こんなふざけた遊びはもう終わりだ。君たちがアビスを倒す力を手に入れるより早く、彼らは自ら滅びの道を歩み始めている」
「……?」
 ドリィは訝しげに眉を寄せた。その反応が想像通りのものであったのか、ラスは満足げに頷いて見せた。
「アビスのあの巨体を支えるのに、どれだけのエネルギーが必要だと思う?元はただの人なんだ。無理に体を変貌させればガタがくるに決まってる。それが本能のまま、身の内にある力を使って村や街、国を滅ぼしていき、全てを放出させたとしたら……君の勇者が倒してきた結果と同じ。あとは土に還るだけだよ」
「つまり……今まで他の国や街を滅ぼしてきたアビスはもうすでに死んでいるということ?」
 ドリィの言葉に、ラスは「呑み込みが早くて何よりだ」と笑った。
「もうこの世界に成体のアビスはほとんど残っていないだろう。そう考えれば、君たちのやったことはあまり意味がなかったといえるかもしれないね」
「あなただって」
 ドリィはラスを睨みつけた。
「長年かけて産み出したアビスは全て力足らず、そのアビスすらほとんどいなくなってしまって、無駄に世界を巻き込んだだけじゃない。これからどうするつもり?」
 その問いには答えず、ラスは静かに笑みを浮かべた。なんてことのない表情のはずなのに、その笑顔に底知れないものを感じてルッカは身震いする。
 ドリィはゆっくりと立ち上がると、
「……いきましょう、ルッカ。ビリィを追いかけないと」
 そう言った。ルッカは少しだけ戸惑ったものの、ドリィに倣って立ち上がった。
 そのまま二人はラスの傍を通り過ぎようとする。

「これからだって?まだ終わってもいないよ」
 不意にラスが呟いた。ドリィがバッと顔を上げると、ラスはその耳にそっと口を寄せた。
「――」
 その言葉は二言三言だったのか、それとももっと長かっただろうか。全てが終わった今となってはもうその場にいたルッカにもわからない。ただ、その言葉を聞いたドリィの肩はこわばり、握られた手がふるふると震え出す。
 ルッカにはラスの言葉が聞こえなかった。しかし尋常でないドリィの様子を見て、この男が今までとは次元の違う、ドリィやルッカたちにとって恐ろしいことを言ったのだということはわかった。
 ルッカの視線に気づいたのか、ラスがちらりとこちらを見た。やはり柔らかく笑っている。カチカチと鳴っている音が、自分の歯だと気付くのにしばらく時間がかかった。
 なぜか「この男に支配されている」と、本能が告げていた。

 ドリィは未だ拳を震わせて立っていたが、やがて膝から力が抜けるとがくりと崩れ落ちる。
「ドリィ!!」
 ルッカは思わずドリィを抱きかかえて支えた。ドリィの顔は真っ青で、真っ白になった唇がふるふると震えている。
 ラスは襟元に手をやると、どこか悲しそうに笑った。
「……恐らく想像はしていたんだろうけどね。ごめんよ」
 その言葉にルッカは違和感を覚えた。そう、世界をここまで混乱に陥れておきながら、そのことに対して一度も聞いたことがない言葉がそこにあった。
「あなた、ドリィに、何を言ったの」
 湧き上がる恐怖でうまく息ができない。それでもルッカは絶え絶えにラスに言った。これだけは聞かなければいけなかった。大事な友人を、苦しめるこの男に。

 しかしラスは肩を竦め、人差し指を口に当てるだけだった。




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