BELIEVER

 三人の中に、暖かな時間が流れていた。
「ねぇ、ビリィはここまでどうやって旅をしてきたの?」
 思い出したようにルッカが聞いた。ビリィは一瞬びっくりした顔をするが、すぐに微笑み、
「そうか。そういえば話してなかったね」
 と言った。ドリィが「そういえば私も聞いてないわね」と興味深そうに体を前に寄せた。
 ビリィは「そんなに大した話じゃないよ」と前置きをする。実際ドリィの体験に比べたら大したことがない話ばかりだろうとビリィは思っていた。しかし二人の期待に膨らむ視線に押され、ゆっくりと語りだす。

「僕はずっと、イースで暮らしていたんだ」
「イースってあのイース?東の果てにある国の」
 ドリィの言葉にビリィはうなずいた。
 イースはコルマガ王国と対になる国だ。もちろん、その規模の大きさの話だけならコルマガの方が比べものにならない。しかし、コルマガと同じく「世界の果て」に国土を構えるイースは、やはり他の国や村とは異質だった。イースは国王が政治を司るコルマガと異なり、民間で選ばれた代表者達が話し合いの元政策などを決めていた。ただ、その最高責任者は建国から50年もの間、ずっと同じ人物が務めていた。
 国土は切り立った岩山にあり、その岩壁を削って作った家に人々は住んでいたため、揶揄する意味合いで「あなぐら国」と呼ばれることもあった。しかし統一された政治基盤、国土の広さ、そして人々の生活の豊かさにおいては、やはり他の、断片的にしか知らない旧時代の様式をまねているだけの「国もどき」とは一線を画していた。
「エストの村を失くして、生きる気力を失っていた僕を拾ってくれたのが、イースに住むアルマだった。身寄りのなくなった僕を引き取って、ただ死ぬぐらいならアビスに一矢報いれるようになれって体術や剣術を教えてもらったんだ」
「アルマ……」
 ドリィはビリィが言った名前を復唱し、何かを考え込んでいた。そしてその名前に思い至ったようで大きく目を見開く。
「イースをまとめた英雄、アルマ・ケックね!イース建国時からずっと最高責任者を務めているって話を聞いたことがあるわ。ビリィ、そんな人のところで暮らしていたの?……あっ、もしかして、あの剣……!」
「そう、ハルーカに置いてきた剣は、アルマがかって使っていたものだよ。噂では、あれも旧時代の遺産らしい。ティアモの時代にあんな大ぶりな剣が必要だったとはとても思えないけど。……あれは、実はイースを出てくるときに勝手に拝借してきたものなんだ」
 ビリィは苦笑した。ドリィは尚も驚き、
「じゃあ、盗んできたってこと?英雄アルマの剣を」
 そう言って目を丸くした。ビリィは少しためらっていたようだったが、しかし観念したように頷いた。
「そうだよ。アルマは僕が旅に出るのはまだ早いってずっと言っていたんだけど……やっぱり僕は、僕の村を滅ぼしたアビスに一刻も早く復讐したかった。イースにだって、いつやつらが来るかわからなかったから。だから、みんなが寝静まった夜にあの剣を持ってそっと出てきたんだ」
 ドリィははぁ…とため息をついた。
「ビリィがそんな大それたことをする人だなんて思ってもみなかったわ。しかもそれをあっさりハルーカに置いてくるなんて。誰かが気付いたら大騒ぎするんじゃないの?」
 ドリィの言葉にビリィは肩をすくめる。ルッカだけが二人の話をよく理解していないようで、キョトンとした顔で二人の顔を交互に見ていた。
「その時はその時だよ。ドリィにもらった剣じゃなきゃアビスを倒せないなら、あれは持っていても仕方のないものだったしね。…まぁイースを出てきた後は特に何もないよ。東の果てからだから、ここまでたどり着くには随分とかかったけど。でも旅路の半分は砂漠トカゲに乗ってきたおかげでかなり楽ができたな」
「意外とワルいところがあるのね、ビリィって」
 ドリィが感心したように言った。しかし咎めるでもなく、むしろそれを面白がっているようだった。

「砂漠トカゲって?ビリィはじゃあ、世界の果てからずっとこっちまで来たの?」
 ルッカが瞳をキラキラさせながら身を乗り出した。確かに、ずっとルドラの村にいたルッカには新鮮な話ばかりだろう。ビリィはそう考えると、
「そうだね。ひとつずつ話していこうか。イースを出て僕はまず、宝石産出のメッカであるスジャータに行って……」
 ビリィが語りだすと、ルッカはビリィの膝の上に身を投げ出して話に聞き入った。スジャータで買った砂漠トカゲの気性が荒くて苦労した話、地中に穴を掘って暮らしているウラジクの村の話、旅の中で出会ったたくさんの人と、その別れの話。

 話を聞いている内にルッカはだんだんと眠くなってきたらしく、こくりこくりと船をこぎ始めた。やがて完全に寝息に変わる。ビリィはルッカの体に上着をかけた。
「つまらない話だったかな」
 向かいに座るドリィに声をかけると、ドリィは首を横に振った。
「ううん、でも最初の話が一番面白かった」
「そうかな、さすがにそうそう人にできる話じゃなくてね」
「そうね」
 ドリィはクスクスと笑った。
「そういえば私、ビリィのことほとんど知らなかったのね」
「本当だね。そういえばドリィのことを聞きたがったくせに、これじゃアンフェアだったな」
「ほんとよ」
 ドリィは頬を膨らませる。そして二人してプッと吹きだした。
「せっかくコルマガも近いんだ。今夜は眠くなるまで話をしようか」
 ビリィの提案に、ドリィはぱっと顔を輝かせて「いいわね、それ」と頷いた。
「聞きたいわ。ビリィの話、沢山」
「そう言われると、なんか話すのは照れ臭いけどね……」
 ビリィは頭を掻くと、ポツリポツリと思い出を手繰るように話し始めた。村に住んでいたころの話、ルッカ遊んだ思い出、イースでの修行の日々……。
 パチパチと揺れる炎の光を見つめながら話をしている内に、段々と瞼が下りていく。そろそろ潮時かな、そう思うと、ビリィはドリィに語り掛けた。
「コルマガについたら教えてくれるかな。ドリィの話も、色々」
 そう言って横になる。狭くなる視界の中で、ドリィは微笑んで頷いていた。
「必ずよ、ビリィ」
 そう言ってドリィはビリィの髪を梳いた。指が通る感覚が心地いい。そういえばドリィが眠っているところをほとんど見たことがなかったな、とビリィは気が付く。ルッカはいつの間にか眠っていることがよくあるけれど、実はアビスの落とし子になったら睡眠すら必要としなくなるのだろうか。しかしそんな思考も、ゆっくりと落ちていく意識の中に溶けていく。

「ドリィ……僕は、愛は世界を救うって思うよ」

 眠りの淵に落ちる前に、ビリィはふとそんな言葉を呟いた。どうして急に先ほどの話に立ち返るのか、言った本人ですらよくわからなかった。ただ頭皮に触れる手の柔らかさが、ビリィの内を暖かい気持ちで覆っていた。

 言葉の最後は最早寝息だった。すぅ、すぅと規則正しい息を聞きながら、ドリィはゆっくりと立ち上がった。その瞳は深い悲しみに彩られている。
「私は、愛が世界を滅ぼすことを知っているわ」
 ドリィが呟く。噛みしめるように。


「だから、私は誰も好きにならないって決めているの」




************

「ドリィ。さっきの話、絶対ビリィには内緒だからね?」

 ルッカのひそひそ声が聞こえる。ビリィの沈んでいた意識がゆっくりと起き上ってくる。
「さぁ、どうしようかしら」
「ドリィ!」
 対してドリィの声は楽しそうで、大声を上げるルッカに「わかった、わかったわよ。そんなに大きな声を出したらビリィが起きちゃうわよ?」と笑った。

「何の話だい……」
 ビリィは緩慢な動きで起き上がった。ルッカは「ぴゃぁっ」と普段聞かないような甲高い声を出してドリィの背中に隠れる。
「なんなんだ…」
 完全に覚醒していない意識では全く状況が把握できず、ビリィは目をしぱしぱとさせた。その様子を見てドリィが笑いながら、
「女の子同士の内緒話をしてたのよ」
 と言った。

 やっぱりさっぱりわけがわからなかったが、これ以上追及してもしょうがなさそうな気もしてビリィは早々に諦めた。ルッカだけが顔を真っ赤にして手で押さえていた。
「おはよう、ビリィ」
「ビリィおはよう……」
 二人の挨拶にビリィも寝ぼけ眼のまま返す。
「おはよう、二人とも。早いんだね」

 ビリィと二人の間には、もうほとんど消えかかっている火炎石がパチパチと音を立てていた。昨日洞穴を煌々と照らしていた火は、今は三人の顔をぼんやりと浮かび上がらせるぐらいまでに小さくなっている。
「早く目がさめちゃったから二人で話をしてたの。ビリィの小さいころの話もいっぱい聞いたのよ?」
「そんなにたくさんはしてないよ…」
 楽しそうに笑うドリィに、ルッカは照れ臭そうに頬を膨らませる。
「ドリィはほんとに早かったの。私が目が覚めたら、もう起きてたんだから」
 ルッカの言葉に、昨日眠りに落ちる前に考えていたことをビリィは思い出した。思わずドリィの方を見ると、ビリィの胸の内はわかっていると言いたげに肩をすくめた。
「私、もともとあまり長く寝る方じゃないの。小さいころから横になってもすぐに目が覚めちゃって」
「そうなんだ」
 安心したような、どこか残念なような気分にもなってビリィは息をついた。ドリィは燭台に置いておいた球体を手に取り、再度明かりをつける。昨日おぼつかなげに揺れていた光は、また強く輝くようになっていた。
「じゃあ、ビリィも起きたし出発しましょうか。ここからコルマガまでなら、もう半日もかからないと思うわ」
 ドリィの言葉にビリィ達も立ち上がった。



 コルマガ王国は大きな国だった。
 それは、この世界に住む人に置いては、誰もが知っている当たり前の事実だ。
 しかしその強大さを目の当たりにできる人はそう多くはない。アシンメトリィ・コミットで半分になったとはいえ尚世界は広く、文明を失った人々はそこにたどり着くための交通手段もほとんど持ってはいないからだ。コルマガに来る人と言えば近隣の村や町に住む人か、一部の物好きな、命知らずの旅人ぐらいしかいなかった。

 洞穴を抜け、最初に目に入ったのは高く聳え立つ壁だった。
 それは見渡す限りの大地に果てしなく広がっていて、世界をそこで分断しているかのようだった。その景色は幼いころに見たものそのままで、ビリィは思わずため息をつく。
「大量のアビスに一夜にして滅ぼされたと聞いていたけど……」
「コルマガが滅んだ直接の原因は、アビスによる国の破壊でなくて国民自体がアビスになったことだったから。それでも、この壁の中は悲惨なことになっていると思うけど」
 ドリィが淡々と告げた。しかし握りしめられた手には力がこもり、血の通わない肌が白くなっていた。
「ドリィ……」
 思わずビリィは声をかけようとする。だがドリィは故郷にたどり着いたその事実よりも、別のことに気を取られているようだった。
「おかしいわ」
「え?」
「ルドラの村を出てから、一度もアビスが出現していない。ここ近年の出現情報から考えて、絶対にコルマガ近辺ほど多くなるはずだったのに」
 ドリィに言われて、ビリィもはっと顔色を変えた。
「でもドリィ、ドリィはアビスの出現場所がわかるんじゃないのかい?」
 ビリィが問うと、ドリィは戸惑ったように顔を振った。
「それが……洞穴の中までははっきりとアビスが近くにいないことがわかっていたんだけど、ここにきて急に感覚がボンヤリとしてきたの。それで初めておかしいって思って……」

 それきり無言になる。天に届くかのような高さの壁が黙って三人を見下ろしていた。この壁の高さであれば、アビスの身長すら覆ってしまうかもしれない。もし扉の先にアビスが大量にいたら。想像して、ビリィはごくりと唾を飲んだ。

「……とにかく、中に入るしかないわ。ここまで来たら私は、確かめないと」
 ドリィのその言葉は、自分に言い聞かせているようでもあった。少し重い足取りながら、一歩ずつ壁に向かって進んでいく。そのあとを、ビリィとルッカが慌てて追った。


 鉄でできた扉の横には、壁から垂れ下がった鎖が揺れていた。鉄扉は人の身長の二倍ぐらいの大きさしかなく、壁の高さに比べてあまりにもアンバランスに見えた。ビリィはふぅ、と息を吐くと、その鎖に手をかける。
「……開けた瞬間アビスの口が開いて待ち構えてるとかはなしだよね」
 明るく言おうとしたが、少しだけ声が震えた。しかしそれが却ってドリィの緊張をほぐしたのか、ドリィもまた息をついて微笑んだ。
「こんな小さな扉から出るぐらいならアビスたちは壁を壊すわよ。それに大丈夫、アビスは夜にならないと出てこないはずだから」
 そう言って空を見上げる。確かに太陽はまだ高く、その光は半分ほどコルマガ王国の壁の中に隠れてしまっているものの、領土内を明るく照らしていそうだった。
「じゃあ……いくよ」
 ビリィが鎖を持つ手に力を込める。長い年月で錆びついた鎖は簡単には動きそうになく、ビリィが手こずっていると、ルッカが駆け寄って手を添えた。
 ビリィは一瞬驚くが、しかしすぐに思い直す。ルドラの村で見たあの身体能力を考えれば、単純な力だけではビリィよりも強いかもしれなかった。
「ありがとう」
 ビリィの言葉にルッカは嬉しそうに笑って頷く。そして、二人で同時に力を入れた。少しずつ鎖が引かれ、金属の擦れ合う音が辺りに響き渡る。
 扉が少しずつ持ち上がっていく。段々と開かれていく視界に、ドリィが息を飲む音が聞こえた。
 やがてズズーン……と大きな音がして扉は完全に上がる。鎖を杭に巻き付けて、ビリィとルッカも開かれた扉の向こうを見た。


 まず目に入ったのは、なぎ倒された石柱だった。
 それから、あちこちに瓦礫が散乱していることに気づく。原型を留めている建物は見渡す限りにはひとつもなく、ひび割れた壁やガラスの破片が散らばっている。

 国は、完全なる廃墟と化していた。

 三人とも、目の前に広がる光景に何も言えないでいた。
 ビリィの村とはまた違う、当時の爪痕がくっきりと残されたその景色は、残酷なまでにアビスという現実を映し出していた。瓦礫の隙間から白い骨が覗いていて、ビリィはう、と言葉を詰まらせる。ルッカに見えないように一歩前に進み出た。
 それでドリィは呼吸を思い出したかのように、長く息を吐いた。

「どこに向かえばいいんだい?」
 ビリィが聞く。ドリィは視線を上げると、はるか遠方に聳え立つ城を指さした。
「コルマガ城の地下。その書斎に行けば、アビスについての資料があるはずよ。そこに行きましょう」


 コルマガ城にも、アビスの爪痕は深く残されていた。城の天守は真ん中からポッキリと折れ、城壁もほとんど崩れ去っている。その姿は、遠目に見てもかなり悲惨だった。
「書斎って、昨日話していた?」
 瓦礫をかき分け進みながらビリィが聞いた。三人の中ではルッカが一番身軽で、ひょいひょいと積み上げられた瓦礫の上を危なげもなく飛び移っていく。バランスの悪い足場も多いだろうに。ビリィは感心してその姿を見上げた。
「そうよ」
 ドリィが答える。
「アビスがアシンメトリィ・コミット以前から存在していたことは、地下書斎の資料に確かに書き残されていた。なら、もっと詳しいこともわかるはず」
「でもドリィ……君はあの日、この国にいたんだろう。どうして今更、コルマガに来ようなんて思ったんだい」
 ビリィがためらいがちに問いかけた。『あの日』、それはコルマガ王国に突如アビスが現れ、一晩にしてこの強大な国を滅ぼした日のことだ。
 そういえば、ドリィはあの日からどうしてこの国を去り、そしてビリィに出会うまでどう過ごしてきたのか。それすらもビリィは全く知らなかった。

「……そういえば、コルマガについたらすべてを話す約束をしていたわね」
 ドリィがため息をついた。その瞳は10年前のコルマガ王国をなぞっていた。

「あの日、コルマガ王国の全ての国民をアビスに変えたのは……コルマガ王国5代目国王、私の父だった」

 振り絞るように出したその言葉に、ビリィは思考まで硬直した。
 ドリィは何を言っているんだろう。アビスを作り出したのが、コルマガの国王……人間だって?
「何を……言ってるんだよ、ドリィ」
「いきなりこんな話をされて、驚くのも無理はないと思う。けれど、アビスという存在は、体内にアビス細胞を埋め込まれた人が化け物に変えられた姿なの」
 今度のドリィの言葉ははっきりとしていた。真っ直ぐにビリィの瞳を見つめ返し、これが冗談でもなんでもないことを告げていた。
「ビリィ、どうしたの?」
 一人だけ先に進んでいたルッカが戻ってくる。いぶかしげに二人の顔を見ていたが、そんなルッカにドリィは語り掛けた。
「ルッカ、あなた10年前にコルマガ王国に来たでしょう。当時流行っていた疫病を予防するために注射を打つって」
「そうだ!覚えてるよ。本当はコルマガ王国の壁の中に住んでいる人しか受けちゃダメって話だったんだけど、お父さんが一本だけ手に入れて私に打ってくれたの。あれは痛かったなぁ〜」
 ルッカは無邪気に思い出を語る。しかし、ドリィの顔は暗く沈んだ。ビリィは信じられないといった顔でドリィの方を見た。
「ドリィ……まさか、その注射っていうのが」
「そう。アビス細胞を体内に埋め込むためのものだったの。あの日、コルマガの全ての国民にその注射が配られた。表向きは3年前に疫病で亡くなった王妃と同じ悲しみをもう引き起こさないため。ティアモの文献から得た知識で、疫病が流行る前に抑えてみせると」
 その言葉に、ビリィは初めてコルマガ王国でドリィを見た時のことを思い出していた。

 その日、ドリィは国民への披露会のため、初めて群衆の前に姿を現していた。コルマガ王国の偉大なる5代目国王とその王妃の間で、幸せそうな笑顔で手を振っていたことをよく覚えている。そう、ちょうどあの折れている天守につきだしたバルコニーで。
 しかし、そこから半年も経たない内に王妃は流行病で命を落とした。王国内は深い悲しみに包まれたが、病の理由が理由のため、これ以上流行が拡大しないように葬儀らしい葬儀も行われず、王妃の体は速やかに火葬された。国王にとっては苦渋の決断だったであろう。

「父はあの日からおかしくなってしまった。書斎に籠り、何かを懸命に調べていて……そして10年前のあの日、あの事件を起こしたの」
「しかし……でも……人が、こんなことを起こすなんて」
 ビリィは震える声で呟いた。あの強大な力を持つアビスを、人が作り出したなんてとても思えなかった。
「そもそもアビスが元々は人間だ、って時点で考えられない話ではないでしょう」
「けど……だって、なんのために」
 淡々と告げるドリィに、ビリィはくってかかるように身を乗り出した。そこでビリィは、昨日ドリィが言っていたことを思い出す。

 愛は、世界を滅ぼす。

「……あれを君に聞いたのは、君の父上なのかい、ドリィ」
 問いかけた。それは想像するだけで恐ろしい話だった。愛する王妃を失った国王が、自らのエゴのため、国を滅ぼす化け物を作り出すなんて。

 だがしかし、ドリィは首を横に振った。

「違うわ。父は、その人の言葉をただ体現してしまっただけ」

 そう言って城を見上げる。緩やかな坂道の上にあるコルマガ城はその元々の大きさも相まって、天守が折れてもなお威圧感を持って三人を見下ろしていた。
 ゴクリ。ビリィは思わず唾を飲み込む。失われた国の象徴であるこの城が、急に狂気をはらんだものに見えた。
「その人って、誰なんだい」
 振り絞るように聞いた。ビリィの手をルッカがぎゅっと握る。その体は震えていた。
 ドリィは真っ直ぐに城を見据えていた。その瞳に映る色は憎しみだったのか、しかし、瞳孔には一筋の光が反射して、悲しげに揺れていた。
「ラス・ト・ティラー。かつてのコルマガの最高科学技術官であり、父にアビス化の技術を与えた人物」
 握った右手に力が入っていた。ドリィは一呼吸置くと、再度噛みしめるように言葉を続けた。

「そして、私が確かめなければいけない存在、そのものよ」




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