第三話:僕らは信じることをやめられなくて
僕の住む村は、水資源が潤沢なルドラの村と、世界最初にして最大の国、コルマガ王国の間に挟まれた、今の時代どこにでもあるような小さくて乾いた、埃っぽい村だった。
水源といえば土色に濁った水の湧く深い深い井戸ひとつ、それだってよく枯れるので、ルドラの村まで片道一日かけて水をもらいにいくことなんてしょっちゅうだった。
村に住むのは僕の家と、隣のラーマおばさんの家、意地悪なお姉さんが住んでいたヤッコブさんの家、大家族のシルーカさん、物知りのイカルガさん、それに村で一番大きな家を持つレクトラさん。姓はみんなヴァー。村全体がひとつの家族みたいに、僕らは乾いた大地の中で身を寄せ合って生きていたんだ。
あの日、アビスが来るまでは。
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砂交じりの風が、ビリィのマントや服の中へバサバサと入り込んでくる。肌がザラザラした。
こんな砂嵐の日はなるべく外に出ちゃいけないよ
ビリィは母親の言葉を思い出していた。今はもう戻れない、懐かしい過去の記憶だ。
土を切り出したレンガで固めた壁でできた家が、ビリィたちの住まいだった。砂漠の中で大小さまざまの家がかまくらのようにこんもりと盛り上がり、銘々に連なっていた。
だがそれも、今は全てない。
ビリィたちは何もない大地の上に立っていた。粘土質の土の上を、乾いた砂が風にあおられて滑っていく。
地中深く掘られた穴がぽつんと取り残されていて、それだけが、かつてここに人の営みがあったことを思い起こさせた。覗いてみると、しかしその深さも砂塵で半分になっていた。あっさりと底を確認することができる。もちろん水の一滴も、そこには存在していなかった。
「ビリィ」
ビリィの背中から少女の声がかかる。ドリィだ。ザァザァという風の音が、そこから先の言葉をかき消してしまった。しかしきっと、聞いても意味がない言葉であっただろう。
「ここが、僕の住んでいた村、か……」
誰にでもなくつぶやいた。何も残されていなかった。ほとんどが土でできていた簡素な家は流れる年月の中で完全に地面と同化してしまっていて、もう自分の家がどこであったかもわからなかった。
こんなにアッサリとしたものか。
いっそ笑いたい気分にもなった。幼いころ父に聞かされた冒険譚。特別な「勇者」という存在。彼の故郷は、こんなにも無残な扱いを受けただろうか?いや、きっと滅ぼされたとして、ここまであっけない状態にはならなかっただろう。
これが現実なのだ。ビリィはただ感情を高ぶらせるでもなく、淡々とそう感じていた。再確認をしたようだった。自分が求めるものはもうここにはないのだと。
「ありがとう、ドリィ」
ビリィは背中へ向き直る。自分と同じ、あの日から時間を止めている少女の姿がそこにあった。しかしビリィの時計の針は、今やっと動き出した心地がした。
「ここに来れてよかったよ」
そう告げるビリィの瞳をまっすぐに見返して、ドリィは曖昧な微笑みを返した。
そのスカートの裾をルッカが握っていた。眉をよせ、薄水色の瞳を見開いて、ルッカは目の前の光景を焼き付けようとしているかのようだった。
その様子に気が付いたドリィが、ルッカの体をぎゅっと抱きしめる。ルッカは額に生えた角を手で押さえた。
「……ドリィ、これがアビスの力なの?」
その言葉にビリィははっとしてルッカの方を見た。ドリィは優しくルッカの頭を撫でると、「うん」と一言だけ言った。
「私のこの角と、おんなじなんだね」
ルッカの瞳からぽろぽろと涙がこぼれていた。
ビリィは自分の浅慮を恥じた。ルッカにこの光景を見せれば、どうなるかはわかりそうなものだったというのに。
ルッカはドリィのことを「姫様」と呼ぶのをやめていた。ドリィがそう頼んだのだ。自分の立場はもうルッカと同じ、だから名前で呼んでほしいと。ここに来るまで、親しげにじゃれあう姿はまるで姉妹のようだとビリィは暖かな気持ちになっていた。なのに。
「ルッカ、違う、君は……」
何が違うというのだろう。「だから」助けようと思ったのではないか。ビリィの心の内からの声がした。ルッカとアビスは「同じ」だから。だから、僕は。
「ルッカ」
ドリィの凛とした声が、張りつめた空気の中に響いた。
「ここに来るまでに話をしたけど、あなたのその角は『アビスの落とし子』である証。確かに、ビリィの村を滅ぼしたアビスと同じものよ」
ルッカの声が詰まる。ビリィもだった。わかってはいたけれど、改めて言葉にされることで、それは現実として二人の心に重くのしかかった。
しかし、次に続いた言葉がそれを打ち消した。
「でも、絶対にルッカをアビスと同じにはさせはしない」
ビリィが顔を上げる。ドリィが強い瞳で頷いていた。ビリィは喉の奥に何かがこみ上げてくるのを感じていた。そうだった。「だから」、僕は。
「そうだよルッカ。僕らは君を救うって決めたんだ。どんなことがあっても、僕らが君を守る。アビスになんてさせやしないよ」
ルッカが恐る恐る顔を上げる。先ほどドリィがしてくれたように、ビリィは力強く頷いた。心の内では情けないな、と頭を掻きながら。
そう、そう決めたのは自分の方だったじゃないか。ビリィは言い聞かせるように心に告げた。あの夜、ドリィに啖呵を切ったのは。それならばもう迷う必要などなかった。
「本当…?」
ルッカが震える声で問いかける。「もちろんだよ」そうビリィは返した。先ほどよりも大粒の涙がルッカの頬を流れていった。
それは砂だらけの顔に一筋、道を作っていた。ドリィが抱きしめた腕に力を込める。
「ね、ルッカ。だからもう泣かないで。大事な水を、そんなことに使ったらもったいないわ」
そう言って、手にした布で頬をぬぐう。ルッカはされるがままに目を閉じた。
いつの間にか風は止み、舞い上がった砂は全て消えて青空が顔を出していた。見渡す限り何もない大地と地平線が、三人の目の前には広がっていた。
「行こう」
ビリィの言葉に、どちらともなく頷いた。一歩踏み出すと、ざり、と地面が音を立てる。気が引き締まるような思いがした。
ドリィの腕から離れたルッカが、ビリィの方へ走ってくる。きゅっと手を握った。ビリィが握り返すと、「えへへ」と照れ臭そうに笑う。その声がなんだかうれしかった。
そんな二人の背中を後ろから見つめて、ドリィは微笑む。しかしその笑みはすぐに消え、一人残された手をぎゅっと握った。
「そう……あなたを救ってみせる、ルッカ。それが、どんな形になったとしても」
呟いたその言葉は、二人に聞こえることはなかった。